銀 龍 物 語 Epi.15 見えない恐怖

商標意匠部
商標グループリーダ
商標代理人 傅 文浩

           
 

 「ダダダダ!……ダダダダ!」

 廊下から何か走っているような大きな音がしました。でも、突然、消えてしまいました。誰か走っていましたか。いいえ、人間が走っている音ではありません。

 今のは、地震です!壁に掛けているハンガーの揺れを見て確信しました。でも、パニックになったわたしは、京都の古いアパートの畳の上で仰向きに揺れているハンガーをじっと見ていること以外に何もできませんでした。

 これは、わたしが日本に来て1年目のできことでした。

 地震の初体験です。そのとき、わたしは、地震であることが分かっても、実際何もできませんでした。恐怖すら感じませんでした。外に出たり、または、机の下にもぐりこんだりすることは、もちろんできません。でも、後から思うと、怖いどころか、日本という地は、これまで生きてきた場所とはまったく違うことを感じました。

 地震とは、いつ、どこで起きてもおかしくないもので、目には見えないですが、遠い存在ではないことがわかりました。そして、それによって、部屋が崩壊し、山が崩れ、命が奪われることも十分あり得るということを思うと、なんか心が凄く暗くなりました。

 地震の初体験の恐怖心によって、その後のしばらくの間、地震に関する資料を調査したり、ビデオを見たり、自分が生活する周辺の避難所を見て回ったり、学校の避難口を確認したりしていました。更に、自治体の避難訓練にも積極的に参加し、日本の皆さんが非常食などを常備していることが分かりました。

 地震への恐怖は、誰でもありますが、定期的に訓練を行うことによって、地域内のコミュニケーションが深まり、皆さんでその恐怖を克服しているような気がしました。避難訓練などを通じて、だんだんと、わたしの地震への恐怖心も薄くなっていきました。

 日本は、恵まれている国ではない。日本の皆さんは、「命がけ」で日々生活しているんだとそのとき強く強く実感しました。

 そのように感じたわたしは、「一所懸命」に日本で勉強するという生活をし始めました。まさに「命がけ」でした。

 勉強以外でも、生活のために「一所懸命」にアルバイトをしましたが、そのアルバイト先で、わたしと同様に日本留学中の奥さんにめぐり合うことができました。アルバイトの稼ぎ時は夏休みの一ヶ月間ですが、わたしは、この間、毎年ふるさとに帰国していました。わたしは一人っ子であるため、離れて暮らす両親と一緒にいてあげたいという気持ちのためでした。帰国のための航空券は、もちろんアルバイトでコツコツ貯金して購入したものです。

 このように、今振り返ってみると、わたしの日本での生活は、「一所懸命」に勉強、アルバイトをし、また、彼女とのデートをして、楽しくて穏やかな日々であったと思います。

 ところが、そのような穏やかな日々は、7年間しか続きませんした。その7年の間に小さな地震があちこちでありましたが、揺れを体験できるような大きなものはほとんどありませんでした。でも、わたしの生活を大きく変える大地震がついに起きました。

 あれは、2011年3月11日でした。今、皆さんは、あの日の地震を「東日本大震災」と呼びます。
 ……

 3月は、卒業の時期です。もうすぐ卒業するわたしと当時の彼女、今の奥さんが卒業式のために、奥さんのお父さんを日本に招きました。

 あの日、天気が良く、よく晴れていました。3人で大阪の繁華街をぶらぶらしていました。とても平和でした。そして、午後の13時を過ぎたところで遅めの昼ごはんを取ろうと思い、食事処に入りました。店は、立派なビルの1階でした。おいしい日本料理に囲まれ、わたしは、思わずご飯を2回もおかわりしてしまいました。3人とも大満足でした。でも、食事を終えて街に出ると、店頭のテレビが地震一色でした。そのとき、初めて大地震があったことを知りました。正直、地震が起きた瞬間は、分かりませんでした。

 その後、発電所の爆発の映像、津波の映像などを目の当たりにし、さらに、東京方面の友達が大阪に来て関西空港から帰国するといったことなどを体験し、思ったより厳しい状況になっていることが分かりました。それらの経験によって、わたしの心の底に長年封印されていた地震への恐怖が蘇ってきました。

 自分の両親と何回も電話で相談をし、奥さんのお父さんとも何度も帰国について話し合いをしました。地震、さらに放射能など、目に見えない恐怖がわたしだけではなく、両家を取り囲んでいました。

 そして、一晩悩んだ末、わたしは、帰国することを決めました。けれども、それは、地震への恐怖が日本でもっともっと勉強したいという気持ちに勝ったからでは決してありません。帰国の決断は、両親を心配させたくないという気持ちによるものです。

 地震は、怖いです。目に見えないから、怖いです。でも、この見えない恐怖から、わたしは、「一生懸命」という言葉を勉強できました。一生懸命に勉強して、一生懸命に生活しています。今もその思いです。

 それは、見えない恐怖――地震から学んだことです。わたしの大事な大事な宝物です。

                
                    (銀龍物語Epi.15  おしまい)